小学校の水泳授業の指導を協力し学童の泳力向上、教師の負担軽減のボランティア活動
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マスターズ水泳・2
実は高校時代水泳部に入り損ねたが、3年の受検の時期の夏休みだって勉強しながら学校で泳いでいた。
おかげで水泳部でないとしてはマァましな25mフリー13秒5程度まで記録が出ていた。
だから秋の校内水泳大会の学年別リレー、トップ泳者で水泳部の現役の1・2年生に引けも取らずに引き継ぎ出来ていて少々水泳には自信もあった。
そんな訳でマスターズに出るようになって、ある程度の自信もってフリーに出るんだがどうもいつも同じ連中に負ける。
それで聞いてみると、高校時代相当鳴らしてたということである。
そんなころバタフライ習いだしてしんどい泳ぎながら何とも面白い、それに皆も同じくしんどいと感じて敬遠するところが なお良いと感じた。
それでフリーではまだ当分抜けそうもなかったこともあってバタフライにシフトすることにした。
最初のマスターズのレースに出たのは4・5回目からであったように思う。
まだ泳ぎがぎこちなく何とも重い泳ぎでギッタンバッタンと評するに値するかと思われる。
同行のコーチが何ともひどい泳ぎ方の泳者がいるもんだと見ていたら当方だったなんて嬉しくもない批評聞いたもんである。
ただその当時は25mのバタは結構出場者がいたが50mとなると殆ど出てこないと言う大穴場であった。
おかげでそんな泳ぎながら初めてメダル手にすることが出来それからバタフライにのめりこんでいき、もちろん泳ぎも変わっていきタイムも上がって行った。
その初めての50mのバタフライ、確か52秒1もかかったように思う。
次の大会では10秒短縮できたし、その次には38秒台出ていたから長足の進歩出しそれだけ練習もした。
その内25・50のエントリーが50・100や200があれば200にエントリーするようになって、結構勝てることが多くなった。
尤もその程度のタイムで優勝できるならと、昔学生時時代にバタフライで跳んでた連中さんガ出てくるようになって1時期優勝さらわれることが出てきたが、流石に200は独壇場でまず負けることが無かった。
尤も出場者もあまり出てこないと言うこともあったかtらかも知れない。
その頃には関西の大会だけではなく1人で東京の毎日マスターズや、名前忘れたが50mプールを二つに仕切って大会行われていたようなところでも出場していた記憶がある。
もちろん東京だって200mバッタは負けなかったように思う。
尤も昨今は相当レベルもパがっているからそんなうまい話はなかろうと思うが。
但し200メートルバタフライの出場者が増えたきっかけは日本での第1回の世界マスターズずであったように思う。
もちろんその前に日本マスターズが生まれ代々木の50mプールで大会が行われるようになった。
その時始めてフリーの400メートルのレースがあり、フリーだから何だってよかろうとてバッタで泳ぐことにした。
コーチもっと遅いエントリータイムで申し込んでくれていたら問題なかったんだが、フリーでのそこそこのタイムで書いてくれたもんだからクロールで泳ぐ連中に付いていけない。
さすがに400mでは差が付いてしまう、と言って400バタなんてそうそう機会ある訳でなし、無理やり強行することにした。
差をつけられながらも止めもせず泳いでいるもんだから、観客は手を叩いてくれているのが分かって大いに張り合いがあったものである。
但し泳ぎ終わって役員すぐ走り来たって「大会運営が遅れて大いに困る」と文句言われた。
このときも100は3位だったが200は1位だったように思うがタイムまでは覚えていない。
というような訳でいつの間にかバタフライで名前売るようになったが中年から習いだしたバッタとこぎり早いと言う訳でもなく、早晩昔バッタで鳴らした選手がマスターズに出てくるまでのつなぎの存在であったかも知れない。
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実は高校時代水泳部に入り損ねたが、3年の受検の時期の夏休みだって勉強しながら学校で泳いでいた。
おかげで水泳部でないとしてはマァましな25mフリー13秒5程度まで記録が出ていた。
だから秋の校内水泳大会の学年別リレー、トップ泳者で水泳部の現役の1・2年生に引けも取らずに引き継ぎ出来ていて少々水泳には自信もあった。
そんな訳でマスターズに出るようになって、ある程度の自信もってフリーに出るんだがどうもいつも同じ連中に負ける。
それで聞いてみると、高校時代相当鳴らしてたということである。
そんなころバタフライ習いだしてしんどい泳ぎながら何とも面白い、それに皆も同じくしんどいと感じて敬遠するところが なお良いと感じた。
それでフリーではまだ当分抜けそうもなかったこともあってバタフライにシフトすることにした。
最初のマスターズのレースに出たのは4・5回目からであったように思う。
まだ泳ぎがぎこちなく何とも重い泳ぎでギッタンバッタンと評するに値するかと思われる。
同行のコーチが何ともひどい泳ぎ方の泳者がいるもんだと見ていたら当方だったなんて嬉しくもない批評聞いたもんである。
ただその当時は25mのバタは結構出場者がいたが50mとなると殆ど出てこないと言う大穴場であった。
おかげでそんな泳ぎながら初めてメダル手にすることが出来それからバタフライにのめりこんでいき、もちろん泳ぎも変わっていきタイムも上がって行った。
その初めての50mのバタフライ、確か52秒1もかかったように思う。
次の大会では10秒短縮できたし、その次には38秒台出ていたから長足の進歩出しそれだけ練習もした。
その内25・50のエントリーが50・100や200があれば200にエントリーするようになって、結構勝てることが多くなった。
尤もその程度のタイムで優勝できるならと、昔学生時時代にバタフライで跳んでた連中さんガ出てくるようになって1時期優勝さらわれることが出てきたが、流石に200は独壇場でまず負けることが無かった。
尤も出場者もあまり出てこないと言うこともあったかtらかも知れない。
その頃には関西の大会だけではなく1人で東京の毎日マスターズや、名前忘れたが50mプールを二つに仕切って大会行われていたようなところでも出場していた記憶がある。
もちろん東京だって200mバッタは負けなかったように思う。
尤も昨今は相当レベルもパがっているからそんなうまい話はなかろうと思うが。
但し200メートルバタフライの出場者が増えたきっかけは日本での第1回の世界マスターズずであったように思う。
もちろんその前に日本マスターズが生まれ代々木の50mプールで大会が行われるようになった。
その時始めてフリーの400メートルのレースがあり、フリーだから何だってよかろうとてバッタで泳ぐことにした。
コーチもっと遅いエントリータイムで申し込んでくれていたら問題なかったんだが、フリーでのそこそこのタイムで書いてくれたもんだからクロールで泳ぐ連中に付いていけない。
さすがに400mでは差が付いてしまう、と言って400バタなんてそうそう機会ある訳でなし、無理やり強行することにした。
差をつけられながらも止めもせず泳いでいるもんだから、観客は手を叩いてくれているのが分かって大いに張り合いがあったものである。
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このときも100は3位だったが200は1位だったように思うがタイムまでは覚えていない。
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プロフィール
HN:
がくさん
性別:
男性
趣味:
遠泳 工夫・発明
自己紹介:
ボランティア・学校水泳応援団
体協・水泳上級指導員
日本遠泳協会・遠泳道5段
琵琶湖縦断泳54キロ・横断泳多数、バタにても完泳
日韓海峡挑戦(43/53キロ)
24時間テレビにて24時間完泳
8時間連続バタフライ・17キロ泳
鳥人間コンテストに7回出場・ヘリ部門2位
フルマラソン5回完走
体協・水泳上級指導員
日本遠泳協会・遠泳道5段
琵琶湖縦断泳54キロ・横断泳多数、バタにても完泳
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