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小学校の水泳授業の指導を協力し学童の泳力向上、教師の負担軽減のボランティア活動
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マスターズ水泳・5・寝屋川水泳協会のこと(2)

前回大阪社会人水泳大会での隠れたエピソード引っ張り出してみた。

いずれ遠泳の項で触れることになろうが、寝屋川水泳協会も大いに関係するので少しふれておこう。

その当時遠泳に目覚めるきっかけは、ドーバー海峡を日本人としてはじめて泳ぎ切った大貫映子さんにあった。

ドーバー泳いでみたくなって練習にも熱が入り出したが、さてどの程度泳げばドーバー成功できるかの目安がなかった。

それで目をつけたのが琵琶湖の縦、54キロほどあろうから34キロのドーバーより長いから距離の不足はない。

尤もドーバー夏でも16度から20度と冷たいからこれはまた別の練習が必要である。

その準備として24時間プールでおよぎつづけることとした。

それで24時間、ドーバーにならって6人でリレーしながら泳げばどの程度泳げるかの目安が出来ようというものであった。

ただまともにプールに「24時間安く貸して」なんて行っても金輪際貸そうとしないだろうから日本テレビの「ズームイン朝」に話持ち込むことにした。

その橋渡しは大貫さんがしてくれ、当日の朝 途中経過生放送してくれることになった。

そのため、「ズームイン朝」の放映の都合でレースは日・月で行われることとなったが、それ以後は選手集めの都合もあって必ず土・日である。

それでプールも無償で借りることとなって、ここに日本初の24時間リレー泳で 泳ぐ距離を競う大会の誕生となった。

もちろん主催は寝屋川水泳協会で、プールはショッピングプラザ内の件のプールで、我々も会員であった。

知り合いのチームに声掛けてとりあえず10チーム近く集めた。

もうその当時には当方もバタフライでドーバーなんて言ってたもんだから、当時のギネス記録の島から島の16キロバタフライのギネス記録の塗り替えに挑戦することとした。

当方9時間がかりで17キロ泳いで、ギネス突破と言うことで辞めた、翌日の新聞にはギネス突破と書いてくれたが、実際には2年ぐらいのタイムラグがあり記録もっと伸びていて承認されることはなかった。

確か1番のチームで24時間で90キロ近く泳いだと思うが、参加チームは10チームほどであったように思うが、もう25・6年以上も前の話で定かではない。


寝屋川市長に話持ち込んで寝屋川市民プールに変わったのは第2回目からであった。

参加チームの増加に備えて屋内の25mプールから屋外の50mプールに移動したと言うのが真実で他意はなかった。
その後20チームほどの参加社集まったから正しい選択ではあった。

そのため雨にたたられたり、夜は工事用の発電機持ち込んだり余計な手間が増えることになったガ今は良い思い出である。

まだこのようなレースが世間でないもんだから結構ニュース向きだったのかNHKはじめ4・5局やってきてTVに流れた。

TVに写らなかったら、1回目引き受けたプールも何とも思わなかったろうが、あちこちの局に流れたもんだから、どうもご機嫌斜めだったようで、その後24時間泳の大会に系列の水泳大会ぶつけて、系列内のチームの参加が困難となったりもした。

でもそのおかげで、スターター努めた市長もTVに写って、プール借りた身としては大いに面目施すことになった。

その後大貫映子さん24時間に出場してくれたり、大阪の障害者団体の「大阪泳ごう会」が出てきて常連となったり、東京の石井晴幸さんの障害者チームがドーバー挑戦の一環として参加するようになったりしたが、この辺も遠泳のカテゴリーで書いてみたい。


寝屋川水泳協会もその後、日本遠泳協会に発展的に移行して役員も全員そちらに移って、今は残っていない。


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マスターズ水泳・4・寝屋川水泳協会のこと(1)

スイミングクラブ内だけの活動ではあきたらなくなった。

同市内には2つのスイミングがありその両方の会員から役員が出て市内に水泳協会なるものを設立した。

規約や色んな手続等で奈良の水連の理事で、マスターズ水泳の推進者のY氏に大いにお世話になった。

系列内水泳大会での知り合いで、この後実業団水泳大会の出場などでも奈良の皆さんと一緒に参加させてもらうきっかけとなった。

もちろん当方は、大阪社会人水泳大会で実業団の参加標準タイムクリヤーしての大阪からの参加だが、多分宿自分で手配してまで一人で参加しなかったであろうと思われる。

そのY氏も数年前亡くなられた。
奈良のマスターズの最大の推進者であっただけに残念なことである。合掌!

そして運営費のねん出のため両プール交互に借りて初泳ぎの水泳大会を開催した。

もちろん市内の水泳の普及・発展が錦の御旗ではあったが、参加者は大阪全域どころか京都、奈良まで。

何年か続けることとなったが多い時には600人ほど集まった、勿論あちこちにできたスイミングのコーチやマスターズ会員が選手集め手伝ってくれたおかげである。

自分たちも出場しながら役員兼ねてるから忙しい事は忙しかったが充実していたことも事実である。

其の上団体には市長に頼んで市長杯作ってあったから大いに盛り上がった。

市長には小さなトロフィーなら渡し切りにするから毎回必要、それが嫌なら大きなトロフィーにしてもらうように頼んでおいたらちょっと小さな大人ぐらいのを提供してくれた。

それで毎回持ち回りの市長杯となった。


ある時、寝屋川水泳協会の名で大阪の水泳協会に団体登録して社会人大会に出ることにした。

団体登録時、大阪水泳協会側からは何らのクレームも付かなかったと言うことは言っておこう。

当協会規約はもちろん寝屋川在住・在職だが、当寝屋川水泳協会応援者は入会可能としておいた。

それでいろんなスイミングの主な早い連中集めてチーム組んで出場して見た。

社会人大会はメインが20代の若い連中が中心で、あとは10歳刻みで50代までの年齢区分だから 最初から大した期待も持たずに出場した。

何せ住友金属の水泳部とかそれを脅かす系列スイミング12・3あったような所が出てくる訳だから期待のしようがなかったわけである。

所がこちらの作戦勝ちとも言うべきことが起こって大阪水泳協会内が蜂の巣つついた状態現出。

尤も全部のチームが騒いだ訳ではなく件のスイミングスクールの運営会社が、それも責任者が大騒ぎしただけのことではあるが。

彼はもともとオリンピックで銀メダル取るほどの選手であったからいつもお山の大将でおらねば承知できないところがあったようである。

こちらは中年マスターズの集まりというのは先ほど述べたが、ほぼ40代50代がメインのおじさまチームの素人軍団。

なるだけクロールより平やバックやバッタに選手振り分けておいた。

同年代で選手重なる場合、同一種目に出ないであえて年齢の若い部分にエントリーするようなことを選択した。

例えば40代でバッタの得意な選手が3名いた場合、20代の200mバッタ、30代の100mバッタ、40代の50mバッタと振り分けたらすべてで2位に入り大いに得点稼ぎだした。

もちろん40代ながら20歳以上が出場出来る200mバッタきついかも知れぬが、きついはお互いさまで、学生時代名を売った選手でもそうは出てこないと踏んでのことで、もちろん当方が出場した。

それに得点狙いで出してこられたスイミングのコーチ連中には引けを取らぬとの思いもあった。

もと関大水泳部の府警の選手には引けを取ったが、各スイミングのコーチ連中には負けずに大いに気勢が上がったし、当方にとっても大いに自信になった。

マスターズのように5歳刻みの同年代でなく若手との勝負だけに趣が違う訳である。

それと我々は殆ど1発決勝種目でレース終了時即刻得点が加算され、若手の出場者の多い午前予選、午後決勝というレース多く抱えているチームより得点の積み重ねが早く行われた。

そのため午前の部が終了した時点ではなんと寝屋川水泳協会がトップにいたのである。

それで優勝常連のチームに目をつけられることとなった訳で先ほどの あのお方が大いに文句をつけ出した訳でそれでやむなく大阪水泳協会の人が出場資格云々ということになった。

大阪実業団水泳大会なら我々寝屋川水泳協会ではまずかろうが、大阪社会人水泳大会故何の文句があろうと思っていた。

しかし内規に所属会社が実業団登録する必要があると言いだしてきた。

所が過去スイミングのマスターズの連中がスイミングクラブの所属選手として出ている例が多々あり、問題にされていなかったことも周知でありながらのごり押し。

どうも我々1回目の出場で彼らがあわてるほどにひっかき回したようである。

実業団チームが我々マスターズの素人軍団の後塵拝すと言う無様に逆に危機感持って翌年はきっちり練習して馴れ合い廃すきっかけにすると言うなら分かる。

所が負けるはずのないチームに負けているという現実に頭に血上らせて無理やりに排斥に回ると言う体たらく。

尤も彼にしたら自分のスイミングに通っているのだから、自分のチームから出てくれていれば許すが、そうでなければ憎さ100倍なんてところもあったようで、その後
寝屋川水泳協会主催の大会に、系列スイミングの大会わざわざぶつけてきたりといろいろあったようである。

先ほどのスイミングクラブのマスターズ選手の出場問題と、登録申請時点で認可しておきながら得点かさねると排斥では納得できぬと言うことで最終的には今回は認めるが次回は認めないで決着。

素人軍団排斥するより取りこんで大いに盛りあげるだけの度量のなさに次回からはこちらから出場取りやめとした。

午後の得点あげて行ったチームに抜かれて 最終的には4位か5位だったように思うが、大阪の実業団にマスターズの素人軍団が大いに頑張ったと言うことだけはここに書いておこう。

最近はマスターズとはいえ元高校や大学の有名選手、スイミング所属で名を売った選手などの出場もあって、マスターズ即素人と言えないところもあるが当時の我々は素人がマスターズ水泳に魅せられて集まった正真正銘の素人軍団であった。

銃に竹やりで戦争仕掛けたようなもので無謀といえば無謀であったがでもそれなりにやれたのだから今持って面白い。

それどころか嫌がられる存在となった訳だから大いに自慢してよかろうと今でも思っているし、水泳協会とはなんと古臭い体質残しているかと思ったもんである。

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マスターズ水泳・3 (系列スイミング内の大会)

その当時は、スイミング全盛になりかけの頃で、子供なんか入会1年街なんてざらであった。

その後各地にスイミングが増えるにつれ是正されだしたが、そんなのはまだまだ先のことである。

SC協のマスターズ以外に日本マスターズ出来るまで、所属スイミングの系列内での大会が作られた。

当時すでに所属スイミングでいつのころからかまとめ役するようになっていた関係で大いに手伝って出場選手の掘り起こし手伝ったりした。

出場選手の数の関係で第1回・第2回とチーム優勝できなかったため第3回は、夜の成人と昼間の婦人とが協力して選手集めてなおかつ、クロールに偏らずに4泳法にばらまいて優勝狙った。

結果は12・3チームあったと思うがやっとチーム優勝できて、皆で大いに盛り上がったものである。

そのころからフリーに偏らず選手いろんな泳法に振り分けるべきであると言うことがあって、小学生の郡の大会でのエントリー時そういう進め方をした訳である。

最初のころはそれほど選手数も多くなかったため、系列スイミングの持ち回りで進めることが出来たが、出場者が増えるにつれてそうもいかず、収容規模の大きいスイミングに固定されるようになった。

第3回以後我らがチームは強豪チームとして認められるようになりいつも優勝争いをするようになった。

その頃には当方のバタフライ フリーよりタイム速くなり、メドレーリレーだけでなくフリーリレーでもバタフライで泳ぐようになり、参加者のだれもがあいつは仕方がないと思ってくれるようになった。

と言って、50m30秒切れるほどでもなく35秒程度であったからバッタならそこそこのレースできてもフリーではやはりきつかったが、あまり気にもしていなかった。

バッタが早くなったと言うよりクロールのタイムが35秒切れなかったと言うほうがわかりやすい。

とにかく何時もバタフライ以外練習しないのだからそれもやむを得ないところである。

バッタはその後もじわじわ伸びて50才の声聞くようになって短水・長水とも33秒の前半まで伸びることになり、実業団の大会まで遠征するようになるのだがそれはまだまだ先のことである。

だから人間の骨は年々衰えるが、筋肉は練習次第でいつまでも強化されると言うのが当時の実感である。

ただその後少ししてから遠泳に目覚めることになりあまり短い距離の練習が手抜きになっていながらなおかつタイム短縮が出来て行った故そのまま競泳続けていれば30秒切れるところまで行けることとなったかも知れない。

バタフライ以外練習しなかったのが、遠泳向きのクロールで長距離をゆっくり大きく泳ぐ練習し出したわけだから。

SC協の大会出たり、系列内の大会出たりして、それもまとめ役するようになって各チームのまとめ役や同伴のコーチに知り合いが急速に増えて行った。

そのおかげで自分が主催者になって大会運営することになるんだがそれは次回で書こう。

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マスターズ水泳・2

実は高校時代水泳部に入り損ねたが、3年の受検の時期の夏休みだって勉強しながら学校で泳いでいた。

おかげで水泳部でないとしてはマァましな25mフリー13秒5程度まで記録が出ていた。

だから秋の校内水泳大会の学年別リレー、トップ泳者で水泳部の現役の1・2年生に引けも取らずに引き継ぎ出来ていて少々水泳には自信もあった。

そんな訳でマスターズに出るようになって、ある程度の自信もってフリーに出るんだがどうもいつも同じ連中に負ける。

それで聞いてみると、高校時代相当鳴らしてたということである。

そんなころバタフライ習いだしてしんどい泳ぎながら何とも面白い、それに皆も同じくしんどいと感じて敬遠するところが なお良いと感じた。

それでフリーではまだ当分抜けそうもなかったこともあってバタフライにシフトすることにした。

最初のマスターズのレースに出たのは4・5回目からであったように思う。

まだ泳ぎがぎこちなく何とも重い泳ぎでギッタンバッタンと評するに値するかと思われる。

同行のコーチが何ともひどい泳ぎ方の泳者がいるもんだと見ていたら当方だったなんて嬉しくもない批評聞いたもんである。

ただその当時は25mのバタは結構出場者がいたが50mとなると殆ど出てこないと言う大穴場であった。

おかげでそんな泳ぎながら初めてメダル手にすることが出来それからバタフライにのめりこんでいき、もちろん泳ぎも変わっていきタイムも上がって行った。

その初めての50mのバタフライ、確か52秒1もかかったように思う。
次の大会では10秒短縮できたし、その次には38秒台出ていたから長足の進歩出しそれだけ練習もした。

その内25・50のエントリーが50・100や200があれば200にエントリーするようになって、結構勝てることが多くなった。

尤もその程度のタイムで優勝できるならと、昔学生時時代にバタフライで跳んでた連中さんガ出てくるようになって1時期優勝さらわれることが出てきたが、流石に200は独壇場でまず負けることが無かった。

尤も出場者もあまり出てこないと言うこともあったかtらかも知れない。

その頃には関西の大会だけではなく1人で東京の毎日マスターズや、名前忘れたが50mプールを二つに仕切って大会行われていたようなところでも出場していた記憶がある。

もちろん東京だって200mバッタは負けなかったように思う。

尤も昨今は相当レベルもパがっているからそんなうまい話はなかろうと思うが。

但し200メートルバタフライの出場者が増えたきっかけは日本での第1回の世界マスターズずであったように思う。

もちろんその前に日本マスターズが生まれ代々木の50mプールで大会が行われるようになった。

その時始めてフリーの400メートルのレースがあり、フリーだから何だってよかろうとてバッタで泳ぐことにした。

コーチもっと遅いエントリータイムで申し込んでくれていたら問題なかったんだが、フリーでのそこそこのタイムで書いてくれたもんだからクロールで泳ぐ連中に付いていけない。

さすがに400mでは差が付いてしまう、と言って400バタなんてそうそう機会ある訳でなし、無理やり強行することにした。

差をつけられながらも止めもせず泳いでいるもんだから、観客は手を叩いてくれているのが分かって大いに張り合いがあったものである。

但し泳ぎ終わって役員すぐ走り来たって「大会運営が遅れて大いに困る」と文句言われた。

このときも100は3位だったが200は1位だったように思うがタイムまでは覚えていない。

というような訳でいつの間にかバタフライで名前売るようになったが中年から習いだしたバッタとこぎり早いと言う訳でもなく、早晩昔バッタで鳴らした選手がマスターズに出てくるまでのつなぎの存在であったかも知れない。

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水泳再開とマスターズ水泳

最初のころの話は、31、泳ぎの環境で触れた。

社会に出てからは長らく仕事に追われて何もしていない。

たまに夏に2・3度琵琶湖や福井の海に行く程度でごくたまには温水プール見つけていく程度。

ところがひょんなきっかけで運動することになった。

息子が幼稚園に行って、運動会で父兄のリレーに駆り出された。

ところがもう少しましに走れるかと思ったが学生辞めて10年にもなると体力の貯金完全に亡くしていた。

それがきっかけで走り出し、エスカレートして何年後かにフルマラソン走るようになっていた。

福井の陸連公認のマラソンで3時間20分まで行って、3時間きれば別大マラソンなんて目標持っていたものである。

ところが参加者年々増えて3時間の制限タイムが2時間50分に変わって出場の希望いっぺんにしぼんでしまった。


ちょうどそのころ近くに出来たショッピングプラザに温水プールが併設されマラソン諦めてスイミングクラブに通うこととなった。

たぶん34・5歳のころだったかと思う。

しかし長いブランクで昔高校のころ出していたタイムととんでもなくかけ離れたタイムに驚いたものである。

2年ぐらいたったころかと思うがスイミングクラブ協議会の主催で大阪でもマスターズ水泳が始まり、そのころ多少ともタイムが戻りつつあったこともあり、その第2回目から参加してみた。

勿論当時子供の大会は早くからあったが大人対象はそのときまでなかった。

50メートルと100メートルに出たように思うが記録どんな程度かきおくにない。

ただメダルもらった記憶がないから4・5番目あたりだったように思う。

そこからマスターズの水泳大会が目標になったことは確かで、練習も熱が帯びだした。

当初、大会で目標にしていたのはあくまでクロールでそれ以外の平泳ぎで出るなんて考えもしなかった。

勿論背泳やバタフライなんて泳げなかったから考えることもなかったのである。

当時未だ大会そうあるわけでなく半年に一度程度のように記憶している。

それで半年必死に練習して出かけていくんだがいつも同じように相手のタイムも上がって中々メダルに手が届かなかったように思う。

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プロフィール
HN:
がくさん
性別:
男性
趣味:
遠泳 工夫・発明
自己紹介:
ボランティア・学校水泳応援団
体協・水泳上級指導員
日本遠泳協会・遠泳道5段
琵琶湖縦断泳54キロ・横断泳多数、バタにても完泳
日韓海峡挑戦(43/53キロ)
24時間テレビにて24時間完泳
8時間連続バタフライ・17キロ泳
鳥人間コンテストに7回出場・ヘリ部門2位
フルマラソン5回完走
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